パーソナルコンピュータの今昔 〜パソコン普及期〜
備忘録の続き
第2章
■1987年頃(続き)
ある日、毎週見ている「パソコンサンデー」(テレビ東京)で、衝撃的な映像を見たのです。
なんと、シャープの新しいパソコンの画面に移っていたのは、「ツタンカーメンの黄金のマスク」でした。
「何て美しいんだ・・・」
と呆然となりました。
小学生の頃からエジプトにハマっていた筆者は、このパソコンが欲しくてたまりませんでした。
しかも、別のデモとして、コナミの「グラディウス」まで動いていました。
アーケードゲームまで動いてしまう、強烈なX68000。
しかし、金額は35万円ほどします。
とても手に入るものではなく、諦めていました。
■1989年頃
高校の職業適性検査で、「プログラマ』が最も適した職業と出ると信じていたのに、
結果は「医者」でした。
プログラマは2番目。
ここから、迷走が始まります。
シャープの最新ポケコンE500の性能の高さに圧倒されて購入するも、
ポケコンジャーナルという雑誌のプログラムを実行させる程度で、自作しなくなっていました。
PC-8801mk2SRまでもがゲーム機としてしか利用されなくなり、情熱は冷めていました。
この頃からPDAに興味が出始め、シャープの電子システム手帳PA-8600と英語辞書ICカードを購入しました。
プログラミング以外の大抵の手帳機能は付いていたのですが、
高校生の私には英語ソフト以外は使い道がありませんでした。
■1990年頃
弟が高校入学祝いとして、なんとシャープX68000Expertをゲットしました。
これにより、超高性能なゲーム機(!)を手に入れたのです。
自作したものは、MMLと呼ばれるFM音源を制御するためのサブ言語を使って、
バンドの練習用のリズム音源を作っていた程度で、
ほとんどプログラミングしませんでした。
そして、この夏「湾岸戦争」が勃発しました。
テレビニュースでは連日、コンピュータ制御のミサイルが正確に目標物を破壊していく様を見て、
コンピュータと軍事ってものが融合すると大変なことになるんだと実感したものです。
(自己注釈:コンピュータは当初砲弾の弾道計算目的で作られたので、そもそも軍事からコンピュータは生まれています。)
筆者も軍事に興味を持っていくことになり、更に迷走します・・・
この頃、ソニー初の電子辞書「データウォークマンDD-1」を購入し、広辞苑の検索が一瞬で出来るようになりました。
■1992年頃
軍事関連では個人の努力を生かしきれないと悟り、もう一度プログラミングの勉強を再開します。
8ビットCPU「6502」について学び、遂にアセンブリ言語がまともに使えるようになりました。
ファミコンの開発なら出来るなと確信し、興味は16ビットCPU「8086」へと移りました。
エプソンのPC98互換機ラップトップパソコン、PC386NOTE(だったかな)というモノクロ8階調(あやふや)を購入し、
日々アセンブリ言語でプログラムを書きまくりました。
逆アセンブラを使ってBIOS を解析し、FDフォーマッタ、ディスクコピーなどのユーティリティを最小サイズで自作し、
640KBの3.5インチフロッピーディスク1枚で開発ができる環境を作っては学友に配っていました。
この頃にはPC-9801シリーズ及びその互換機は世の中のパソコンの相当数のシェアを誇り、王者となっていました。
■1993年頃
ついに、32ビットCPU「68000」へと到達し、長年ゲームマシンであったX68000を本格的に使い始めます。
68000では、最初はC言語から利用し始めたのですが、シャープ純正のコンパイラの最適化がいまいちであったことから、
アセンブリ言語へと移っていきました。
8086にはない広大なメモリ空間、メモリマップドI/O、高速・高機能なVRAM、音声再生機能。
X68000の素晴らしさを語るのはまた別の機会にします。
同窓生、後輩達も同じようにX68000にハマり、素晴らしいソフトを作っていきました。
■1994年頃
コンピュータ専門学校の講師として、アセンブリ言語とC言語を教えるようになります。
世の中はWindows3.1の世界となり、PC/AT互換機が普及してきました。
NECはPC98でwindowsを動かしていましたが、PC/AT互換機全盛を向かえ衰退していきます。
筆者もパーツを購入して、自作のPC/AT互換機を動かしていました。
CPU は80486DX。100MHzで動作する最新のものでした。
この頃はまだMS-DOSをベースとしたアプリケーションがほとんどでした。
メガデモというマシンスペックを最大限利用したCGデモアプリを目にし、自作するようになります。
そして、翌年パソコンの世界に革命が起きるのです。
(つづく)